【おたよりコラム】「ない」のなかにある

 冬といったら、クリスマスプレゼントにケーキにお年玉、いろいろなものがもらえる最高の季節。幼いころの私はウキウキしながら冬を迎えていた。普段あまりおもちゃを買ってもらう家ではなかったということもその特別感を増やしていたのかもしれない。小学生のころに流行り出したポケモン。ゲームもカードもかなり多くの男の子がもっていた。携帯ゲーム機も持っている子が輝いて見えていた。中学高校生のころ、音楽プレイヤーを周りが持っている中でなかなか持つことができなかった。きっとこうして買ってもらえなかったという記憶があるということは当時かなり欲しかったのだと思う。でもなかなか買ってもらえず、待つ時間があったからこそ、本当に必要なものなのか、実はそんなに必要ではないものなのか、自分と向き合う時間がたっぷりあった。時間がたつにつれ「別にいらないや」と思うことが多かったように思う。時が過ぎるといらなくなるという感覚を知ったのは欲しくてもすぐに手に入らないという経験からだったかもしれない。  また、いるかいらないかの判断だけでなく、このおもちゃを買わなくても、自分で同じような楽しさを作り出せると考えるようになったのも、欲しいものが手に入らなかったからこそだと思う。手に入らないなら作る、そう考えるようになったきっかけをはっきり覚えていない。でもいつの間にか、おもちゃそのものを手に入れて遊ぶ面白さより、自分で楽しいおもちゃを想像しながら作っているその時間、出来上がった後に遊んでみてさらに改良する時間、家族や友だちが自分がつくったおもちゃで遊んでいる姿をみる時間に楽しさを感じるようになっていた。ふりかえると、工作しようと思ったときに、いつも家には余計な割り箸やモール、厚紙に段ボールとさまざまなものがあった。もしなかったとしても材料となるものであれば自由に買ってもらえていたように思う。そんなことを年中繰り返していた結果、趣味で建築模型を作ってみるような不思議な中学生ができあがった。こうした環境はなかなか用意できない。そう思うと、自分でワクワクを作り出す力は、悔しいけれど親の狙い通りだったのかもしれない。  そして他にも新しいものが手に入らない中で、今あるものの中におもしろさを見つけ出すということができるようになった。ただ1個のボールだけで、1組のトランプだけで、1本の紐だけで、1枚の紙だけで何時間でも遊べるという私の特徴は、目新しいものがない中で、おもちゃやゲームなどに楽しまされるのではなく、いつもあるものの中に「おもしろい」を見つけだす習慣が身についたからだと思う。どんなことでも自分で「おもしろい」をみつけられたら物事はおもしろくなる。きっとこれはおもちゃやものに限らず、どんな環境でも活きてくる。たいへんなときも楽しめるのはこんな待つ経験の中で身についた力だと思う。「ない」という状況はたくさんの成長をくれた。  欲しいものがすぐ手に入ってしまう。今はそういう時代だと思う。ごはん、お菓子、おもちゃ、そしてテレビも録画でいつでもみれる。ちょっと暇なときにはネットにあふれる動画コンテンツがすぐ手に入る。連絡の返答も情報も答えも待つことなくすぐ手に入る。とっても便利ではあるけれど「手に入らない」という時間が少なくなっているように思う。我慢する機会が減った、とも言えるけれど、それ以上に「手に入らない」の先にある成長のきっかけや楽しさに出会う機会が減ってしまったように思う。  今の私自身をみても、ぱっと手に入らないからこそ学びになっていることが多い。それこそ子どもたちの成長もそのひとつなのかもしれない。うまく伝えられないこと、思い通りにいかないことが多い。だからこそ考え続けるし、いろいろ動いてみる、そしてまた考える。ぱっと正解が手に入らないからこそ私は子どもの世界に深く深く魅了されているのかもしれない。  三尾 新

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