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【おたよりコラム】少年と文字

 夏にむけて使いたいものを取りに、実家に帰った。探し物をしていると余計なものが目に留まるもの。子どものときの私の記録がいろいろと出てきた。あつめた石、作ったもの、様々な写真、メダルやトロフィー、ひとつひとつ「こんなこともあったなぁ」と懐かしい思い出に浸っていた。そうこうしているとうすい青色の紙ファイルがでてきた。少年によって書かれた作文がたくさん綴じられたファイルだった。小学生だった少年に興味があった私は、最初にでてきた中学生の少年の作文を、すっと脇に寄せ、小学生の少年の作文をみつけた。みつけた私はものすごくショックを受けた。字が汚かった。いや、特別綺麗に書いているなんて期待もしていなかった。それなのに、大きく、予想を下回ってしまったのだ。しかも最初にみつけた作文こそ6年生のときの作文、もう他の作文にも期待できなくなってしまった。残念な気持ちのまま読んでいく、「あ、こんなこと書いたなぁ」意外にも覚えているものだった。そのとき少年がどんな風に考えていたのかなと思いを馳せてみるものの、枠からはみ出た文字、消しゴムで消さずにぐちゃぐちゃっと上に重ねて書き直した文字、様々なものに私の意識はもっていかれ、考えることができなかった。唯一わかったのは、毎度、最初は綺麗な字で書こうと思っているようだ、ということぐらいだった。3行書く間に、その集中力やらやる気やらはどこかにいってしまうようだったが。

 作文だけではなく、5年生の時の一言日記や2年生の時の宿題ノートも見つかった。2年生にもなるとどのページを見ても、『。』は書き忘れているし、『よかった』は『よかた』だし、『しゃがんだ』は『ちゃがんだ』、『は』『が』『に』『を』などはめちゃくちゃ。みればみるほどに悲しくなってくるノートだった。少年は書いたものを誰かに読んでもらおうなどとは思ってもいないのだろうということも確信に変わっていた。ごほうびシール欲しさだっただろうけど、それでも、ただただ続けていたことだけは認めてあげよう、そう私自身に言い聞かせる結果となった。結局、半分は思い出に浸りつつも、当時の少年を美化していたことへのがっかり感にも半分浸かることとなった。

 悲しさと向き合いつつも、思うことがあった。もし小学生の私が同じ学年のひとりの子として今のみんなの学校に混ざっていたら仲良くなるのだろうか。もし反対にみんなが私の小学校で一緒だったらどうなるだろうか。今、ひとりとひとりとしてそれぞれの子と向き合っているけれども、どうしても大人と子ども。もし本当に横の関係になれたとしたら、どんな世界が広がってみえるのだろうか。

 私は男の子をもつお母様によく言う言葉がある。「男の子は周りからみた自分を意識できるようになるのは、早い子で5年生ぐらい、遅い子だと中学生に入ってからですよ。それが意識できるようになってから、忘れ物がなくなったり、字が綺麗になったり、計画性が出てきたりするものですよ。男の子をみていて、その変化がくることがなによりも楽しみなのです」そんなことを話す。今回この話に追加しなければいけないことがひとつ増えた。「私の変化は中学生になってからでしたよ」と。

三尾 新

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