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【おたよりコラム】応援

『じきゅう走でさいかいになったとき、お母さんががんばれーーーーとはげましてくれました。ぼくは1000位から2位になりました。おわったときお母さんに「ありがとう」といいました。』

 12月にかかれた作文。順位など大げさになっている部分もある。けれども、お母さんの応援が本当に嬉しかったんだろうなぁととても伝わってきた。

 応援されると力が湧いてくる。私もそんな一人だった。私の母はものすごくおしゃべりだった。おしゃべりといえばまだいいけれども、常にハイテンション、賑やかしという言葉がしっくりくるような母だった。子どもたちの中でも、それこそ他の学年の子でも「三尾の母ちゃん」といえば、「あぁ、あの」となるほどの母。何度も恥ずかしいと思ったこともあった。それでもやはり嬉しかった。どんなときでも応援に来てくれていた。大きな声で応援される。母の声は試合中でもよく聞こえてきていた。かっこいい姿をみせたい!そんな気持ちも自分の心を後押しし、いつも自分の力以上に頑張れていた。

 サッカーの試合、運動会いつも応援してくれていた。応援されることは嬉しい、けれど、だんだんと恥ずかしさも大きくなり。高学年、中学生にもなると「見にこないで!」といったこともたくさんあった。見にこないでといったものの、母の声や姿がみえないとなにかすこしがっかりする自分がいた。大きくなってきた私にとっては、母がいなくても頑張ることは変わらないし、結果もそれで変わるようなこともない。 

ただ、見ていて欲しかったという気持ちがでてくるものだった。その試合の後、家に帰ると、「試合はどうだった?」と聞かれる。勝った、負けたと報告する。すると見ていたと言わんばかりに話し始める。「あのシュートは惜しかったね」「よく走っていたじゃない」「あのシュートすごかったね!」私は「きていたの?」そう聞きながら、なにかすごく温かいものが心の中に溢れてくる。見ていてくれた安心感。静かにだけれども応援していてくれたんだという嬉しさ。でも「ありがとう」なんていえない。「こないでっていったじゃん」そう返してしまう。せいぜい「そんなところにいたの?」それが精一杯の言葉。そんな言葉は母を傷つけることもあったかもしれない。でも、応援で大声を出して人を応援するようになった、いまだからわかる。がんばっている姿も見ていて、なんとかして勝ってほしいと強く思う。そう思いながらも自分にできることはない。必死になって応援するしかない。その気持ちがわかった今、私は母にものすごく感謝の気持ちが生まれてきた。小さい頃からずっと見てもらっているということは自信となって力となって積もり積もっている。静かな応援も声をあげての応援もやはり、その気持ちはしっかりとつたわっている。今私がもっている自信はそうやって見守ってきてくれていた母がいたおかげ、そう感じられる。

 でも、この感謝を素直に伝えられる気がしない。中学生と変わらない自分がいる。

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