【おたよりコラム】考える
緊急事態宣言が解かれ、いよいよ小学校がはじまりました!自粛の要請もなくなったということもあり、様々な場所に人があふれています。今まで我慢していた分、こうして外に出られること、人と会えることのよろこびは今まで以上に大きなものとなっているなあと私自身強く感じています。ただ、たくさんの人をみて思うのです。自粛解除されたからといって、みんなが出て大丈夫なのか?すでに第2波がきはじめている場所もあるのでは?こんなことをいうと、考え過ぎと思う方もいるかもしれません。ただ、大丈夫といわれたら大丈夫なのか。言われた通りにしていたら正解なのか、そもそも正解ってなんだろう。そんなことを最近よく考える。 ここ3ヶ月学校がない生活をしてきて、ようやく再開とわかったとき、子どもたちに「やっと学校はじまるね~」と声をかけた。すると「学校はじまらなくていい~」「いきたいくない~」と返ってくることもあった。「どうして?」と聞くと、「家でも勉強できる」「友だちとも遊べている」「自分のペースでできる」と理由が返ってきた。たしかに学校に行かなくてもできたこともある。でも学校でしか得られなかったこともあるはず。そもそもなんのために学校にいくのだろうか。 この4月5月は、考えることが増えた時期だと思う。外に行くか家にいるか、マスクはいつつけていつ外すか、なにをしてよくてなにをしたらダメなのか。考えすぎは、生きにくくなるという方もいると思う。でも、私はその生きにくいタイプ。すごく考えるタイプだったし、なんで?と常に考えるからか、人と一緒にいるのが苦手な時期もあった。みんなで集まるのは楽しい。その感覚もわかる。一緒になにかをしていたら楽だと感じることもあった。でも、一緒にいてなにも考えなくなると不安になった。中学高校が電車通学だった私は、サッカー部の練習後、みんなで学校から駅のホームまできて、10人弱ぐらいで一緒に電車にのって帰るということが多かった。みんなと一緒にいるのはとても楽しい。でも、それ以上にみんなが一緒にひとつのドアから乗ったら、もともといた他のお客さんにとって迷惑でしかない。そういう考えの方が強く、ひとり隣のドアから電車にのり、電車の中では離れて帰ることも多かった。友だちと仲が悪かったわけではない。一緒にいたら楽しい。でも、考えてしまう。そんなことがとっても多かった。周りからの目を気にしすぎるタイプ、というように捉えることもできる。そういう一面もあると思う。でもいえることは、自分で考え、周りと異なる結果だとしても動いていたということ。自分がどうみえるかについて考えていたのが前の話だけれど、自分のなりたい姿、自己催眠、学習法、運動時の筋肉の使い方、どうして包丁はあの形なのかとかの形状や仕組みについて、どんなことでもひとつひとつ考えていた。 自分で考え、判断し、行動する。言葉で言うと簡単なことだけれども、なかなか難しい。上着はきていいですか?トイレに行っていいですか?忘れ物をしてしまったとき、どうするか。自分で考えてどうするかを決めてほしいといつも願っている。そしてそこに自分なりの理由があればどれも正解だと思う。こうしたらより良くなるんじゃないかという新しい視点があればアドバイスもする。でも私の考えが絶対ではない。私にとって、教室は学力を伸ばす手伝いをする場でもある。でも、みんなが自分で考え動く、そんな習慣を身につけることこそが私の一番伝えたいこと。正解なんてわからない世界。未知の世界を歩いていく子どもたちがどんなときでも歩んでいくためにはそんな力が必要になると思う。そして、どんなことにも自分の考えを持ち、伝えられるようになることが、自分とは異なる考えを受け入れる力にもなると信じて、ひとりひとりが考える場をたっぷり用意していきたいと思います。
三尾 新