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【おたよりコラム】今の私があるのは

 普段から子どもたちと近くにいてケガさせたくないので、あまりアクセサリーをつけない私ですが、年に何回か身につけることがある。つけるものはいつも同じもの。心を支えてくれるお守りのようなもの。不安に向き合えたり、自分の背中をおしたりしてくれる宝物だ。

 「いくよいくよいくよーー!GO!」そんな掛け声とともに走り出す。走りながらお互いの位置を確かめるために3秒に1回ぐらい頻繁に目を合わせる。「まだいける?」「もうちょっと!」「ペース上げてくよ」そんなことを目で語り合う。お散歩という名の、楽しみの時間。移動は走り。公園から公園へは止まることなく思いっきり走り切る。公園では、ジャンプしたり、トレーニングしたりと、一緒に全力で遊ぶ時間だった。一緒に遊んでいたのは、私が大好きで大好きでならない、リブラという名前の愛犬。ジャックラッセルテリアという犬種で、小さいけれど、ものすごく運動能力に長けた子だった。リブラは、私の価値観を変え、心を支えてくれ、私の世界を広げ鮮やかなものにしてくれた家族だ。リブラがうちに来たのは私が、小学校高学年のころ。その時の私は犬が大嫌いだった。どれくらい苦手かというと、学校の帰りの通学路に散歩している犬がいたら、道を変えて帰ってしまうぐらい。本当に犬が怖かったのを覚えている。そんな犬嫌いの私の家にリブラがやってきた。最初は怖くて可愛がるどころではなかった。あかちゃんのリブラは本当に小さくて、ジャンプしてもソファにも登れなかったので、ソファよりも高くて絶対に届かないピアノの椅子の上に逃げていたのを覚えている。でも数日後にはもう怖さはなくなり、一緒に遊ぶ兄弟のようになっていた。一緒に遊ぶ仲間ができたということだけでも嬉しいことだけれども、リブラに救われたのは私が中学高校生のとき。思春期とでもいうのか、反抗期とでもいうのか「自分のことを本当に理解してくれる人なんていない」「家族も結局のところ、一緒にすんでいる他人でしかない」と家族を信じることができない時期があった。そんな考えだったので、家に帰るのが憂鬱なときもあった。そんなときでも、家に帰ってきた私を毎回玄関まで全力で走って迎えにきてくれ、全身でよろこびを表現してくれた。苛立ち、もやもや、悲しさ、いろんな感情を抱えているとき、いつも足の上にいて心地よい温かさと安心をくれた。いつも寄り添い、誰にも言えない私の心の中の思いをすべて受け止めてくれ、気持ちの整理を手伝ってくれる、そんなやさしいリブラが家にいてくれたおかげで、私は自分の心をおだやかに保てていたように思う。リブラは言葉を発することはないけれど、リブラと毎日たくさん会話をしていた記憶ばかりが思い出される。リブラからすると、私のことを「遊び相手」であり、いつからか「手のかかる子ども」という感覚だったのではないかな、と思う。私の一番の心の支えだった。

 リブラは、先入観はただの勝手な思い込みであること、信頼を築くのは言葉ではないこと、表情や目で伝えられることの多さ、そばにいることや触れることの大切さ、たくさんのことを教えてくれた。リブラがいなかったら、「子どもは苦手」と思っていた私が今の活動をすることはなかっただろうし、子どもたちとの信頼の築き方を言葉やテクニックに頼っていたかもしれない。

 すべてを変えてくれたリブラ。そのリブラが天国にいって10年。変わらず私の心をずっと支え励ましてくれる存在。私が唯一つけるアクセサリーはリブラのつけていたチョーカー。これをつけるとリブラに守られ、背中を押されているような気持ちになり、力が湧く。リブラにみられて恥ずかしくないようにと背筋が伸びる。リブラが教えてくれたすべてを、今度は少しでも多く伝えていけるように、ひとりひとりまっすぐに目を合わせて微笑んでいきたい。 三尾 新

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