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【おたよりコラム】素直の強さと向き合う強さ

 夏の暑さも落ち着いていた日の昼過ぎ、ゆっくりと道の向かいにあるセブンイレブンへお昼ごはんを買いにいっていた。歩いて帰ってくると、外のしばふにでて、私をよんでいるお母さんがいる。だれか怪我でもしちゃったかな。そんなことを思いながら、早足になる。入り口に着くと、「虫が」「大きいの」「ハチみたいなの」「ここ」短い言葉でおもちゃのある窓のところまで誘導される。みてみると10cmもありそうな大きめの虫が窓の枠に止まっていた。その虫の周りを囲むかのようにお母さん方と子どもたちがいた。近寄ろうとする子どもと、引き止めるお母さん。鮮やかな黄緑色に、尻尾は黄色と黒。大きな櫛のような触覚に、長い足。見慣れぬ生き物に、質問が飛ぶ。「ハチ?」「ささない?」「かぶれない?」私の返答は「蛾だと思う」「ささないと思う」「でもかぶれるかもしれないから、触らないほうがいいかも」というぐらいだった。その時の私は、その虫のことを『知っている』と嘘をつくことなく、『知らない』だから『調べる』という行動をとることができた。そうして、調べている時に思った。きっと子どものころの私は『知らない』と人に言えなかったろうなぁと。おそらく、『それは蛾だよ』と知ったかぶりをしてしまっただろうなぁと。

 知らないということ自体は何も恥ずかしいことではない。今はそう思うことができるけれど、知らない、わからないということは、馬鹿にされること、自分が優位に立てなくなること、そのように感じていた。知らないという恥ずかしさから逃げるために、人より優位に立つために、どんなことでも知っているふりをした。そしてその知っているふりは自分自身を苦しめる。知ったふりをしようとすると、どうしても嘘をつくことになる。そして、その嘘はひとつでは済まなくなる。見栄をはろうとすればするほど、嘘に嘘を重ねていくことになり、いずれ知ったふりはうまくいかなくなる。それをなんども繰り返し、友だちに、母に愛想を尽かされた。『なんで知ってるって嘘ついたんだろう。いま、素直に知らないっていえばよかったのに、』成長するにつれ、心の中で気付いているのに、それでも嘘をついてしまう自分に後悔することが増えていた。それでもなかなか見栄をはることをやめることができず、見栄をはるのをやめるまでに、大きくなっても苦労したのを覚えている。素直に『しらない』『わからない』と言える子は強いと思う。それが一番の道でもあると思う。自分を騙すこともないだろうから。

 ただひとつ、見栄っぱりはほめられるものではないけれど、必死になって自分から知識を集め、わからないことについて人に頼ることなく自分で考え抜いていたことは、今の自分に繋がった部分だなと思う。実際は人に頼ることが弱いことだと思っていたので、頼れなかっただけだけれど、見栄っぱりがプラスに働いた部分なのではないかなと思う。

 最近は情報が多く手に入るし、待っていれば入ってきてしまう。その影響もあるのだろう。『わからない』となると思考が停止してしまう子も多い。そして、やったことがないことでもテレビやYoutubeでみたことを『知っている』こととして表現する子をよく目にする。もう一歩考えれば、『わからない』から抜けることもできる。『知っている』つもりだけれども、本当はなにも経験としてわかっていない。そんなことが多い。わからないことは『わからない』、知らないことは『知らない』でいい。やったことないことは『やったことない』でいい。過剰に知っているふりをする必要はない。それでもそのことについて考えてみようとすることは忘れないでほしいと思う。

 今私自身、お母さんたち、子どもたちの中にいる。でも子育てをしたことはないし、赤ちゃんを産んだことももちろんない。しらないことばかり。それでも情報ばかり入ってくる。まちがいなく頭でっかちになっている。でも、絶対に知ったかぶりはしない。そして、わからないけれどわからないなりに、対峙した方々が何を思い、何を考えるのか必死に考える。考え続ける。素直でありながら。子どもたちにこうあってほしいという姿勢をまずは自分が手本となれるように。

三尾 新

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