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【おたよりコラム】当たり前がつくる

 小学生の私の夏の記憶。覚えていることは特別なことではなく、毎日のサッカーと毎年恒例の愛知への帰省ぐらいのもの。家族でいろいろと出掛けたり、イベントに参加したりしたはずだけれど、実はあまり覚えていない。そんな思い出の少ない夏だけど、毎年楽しみにしていたことがあった。それは夏休みがはじまる少し前のこと。6月7月の土日に開催されていた地元の公園でのお祭りだった。毎年最初に行われるのはちょっと離れた第2公園、その次が2kmぐらい離れている大きな第1公園、そして一番近くの第3公園と3週続くことが多かった。そしてそのあと、最後を締めくくるのが、丸山台公園のお祭りで、広くて屋台がたくさんあるお祭りだった。私はそのお祭りシーズン、どんな予定よりも優先してお祭りをまわることに命をかけていた。毎回親にお金をもらっていたように思う。せいぜい2、3ゲームしかできない金額だったけれど、お祭りに行けるというだけでうきうきしていた私は、文句をいうこともなくお祭りにでかけていっていたように思う。お祭りの楽しみ方はというと、友だちと約束していなくてもひとりでお祭りに参戦し、いろいろな屋台をのぞいていた。お祭りでなにかすることが好きというのではなく、『お祭り』という雰囲気が好きで好きで仕方なかったのだと思う。

 お祭り好きになったきっかけは、お祭りのお店の裏側を知ってからのように思う。私の通っていたサッカーの少年団がお祭りでカレーとかき氷とスーパーボールすくいの3つのお店を出していたのだ。毎年、母はそこの手伝いでお祭りにいることが多かった。私自身がそこで手伝った記憶はほとんどないのだけれど、当たり前にお店の裏側に入って、大きな氷をみたり、「はい、どうぞ~」と笑顔でやりとりしている母やサッカーのコーチの様子をみていた。人より多くスーパーボールすくいをみている時間が長かったせいか、最高記録をだせるぐらいにうまくなっていたのも、お祭りにはまっていたひとつの理由かもしれない。とにかく、お祭りの人と人が笑顔でつながって、みんなが楽しそうな雰囲気にいつの間にか魅了されていたのだと思う。  私が今、お祭りをやっているのは特別なことだと感じていないからなのかもしれない。私の周りに当たり前にあったことだから、特に大きなハードルを感じることなく行えているのだと思う。そう思うと、いろいろなことがそうなのかもしれない。よくカラオケに行く家族は歌うことは自然なこと。よくキャンプに行っている家族は外に泊まることも自然なこと。楽器、運動、博物館、映画、海、山、川、そして海外の文化も、どんなことも特別なこととして味わうのではなく、当たり前のものとしていつもそこにあって、当たり前のものとして受け入れているかが、長い時間をかけてその人を作っていくのかもしれない。初めてやってみたことに、大きな影響を受けることもあるだろう。でもきっと、当たり前にあるものには、どーんとぶつかるような影響力はないかもしれないけれど、その人をじわじわと作り上げるような大きな力を持っているように思う。  この夏は3年ぶりに再開されるイベントも少しずつ増えてきているように感じる。いろいろな経験をしてほしいと、たくさんのものに参加することも素敵なことだけれど、たいしたことないようなことでも、毎年やっているよ、というような当たり前のイベントこそ、その子を作っていくのかもしれない。しばふのイベントも誰かにとって毎年の『当たり前』になって、いつか、しばふでこんなことしていたから今の自分があると思ってもらえたら嬉しいなぁとそんな想像をしながら、ひとつひとつを丁寧に積み上げていこうと思う。 三尾 新

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